飛田英夫 写真集「Le declic」 [][]
2014年1月 5日 11:40
飛田英夫 写真集「Le declic」


 飛田英夫さんは、子どもの頃、箱庭の世界を作るのが好きだった。40歳をすぎて、それまで観た映画のシーンを思い出して、イメージをジオラマにして制作し、大型のポラロイドカメラで一枚撮影して、ジオラマは破壊してしまうという過激な表現活動を、人知れずに続けてきた。ある年、自宅が火事になり撮影した写真の半数を消滅させてしまった。それ以来、公開することを決意して、個展を続けている。2013年の冬、EMON PHOTO GALLERYが飛田さんの個展を開催し、「Le declic」という写真集を発行した。飛田さんの写真は欧米でも話題になっているようだ。

縁あって、この写真集に、橘川の文章を掲載させていただいた。




孤独な自由
橘川幸夫


 映画とは都市の中で大勢の他人が集まって観るひとつの夢である。自然の歴史から隔離され、共同体から追放された、ひ弱で虚ろな近代的自我が、排水口に流される液体のように映画館の闇の中に集まり、二次元の夢にまばたく。組織に痛打されたサラリーマンも、未来のことは考えたくもない主婦も、いつかののしりあうことを予感しながら愛しあう恋人たちも、何も不安にならないことが正義であるかのように振る舞う子どもたちも、二次元の夢にまどろむ。

 観客のそれぞれが見たい夢と、映画製作者が見せたい夢が、都市の猥雑な繁華街に出現したブラックホールの闇の中で交じり合う。生涯という時間の流れの中の、まばたきの瞬間は、まどろみの中で永遠を獲得する。僕たちは、映画という夢を観ながら、何か巨(おお)きな時間の塊に観られているのだろう。それは、嬉しく、悲しく、寂しく、喜ばしく、屈辱的である。

 銀河のように圧倒的なシルバースクリーンと、コクピットのような座席。操縦を許されない宇宙パイロット。時間のジェットコースターに搭乗し、心を揺さぶられ、涙腺に催涙ガスをぶちこまれ、笑い茸を大皿一杯食する。ドラッグレス・ドラッグ。感情の乱痴気パーティは、定刻まで行われる。

 そして、終わらない宴会はない。朝が来るように照明の御来光を迎え、僕たちは、再び、自分の力だけでは大地の夢を観ることが出来ない、去勢された近代的自我に戻る。人々は満ち足りた表情で家に帰る。何事もなく日常が戻ってくる。しかし、そこから本当の映画が上映されることを知る者は多くない。。

 人はある年齢になると気づくだろう。夢とは夢を観ることではない。観た夢を漂白し、再構築することなのだ、と。夢の本質は未来にはなく、追想にある。悲しい懐かしさの中にある。終わったことを終わらせない意志が生きるということなのだ。観たことを観たと言い、聞いたことを聞いたと言い、感じたことを感じたと言う。その無限の反復行為の中にしか、僕たちが本当に観る夢はない。

 思い出は輝いていればいるほど残酷である。夢にリアリティを持たせれば持たせるほど、現実は希薄になっていく。追想し、彷徨(さまよ)う魂が、近代の整理整頓された国家から羽ばたく時「自由」という風を感じることが出来るのだろう。自由とは孤独を愛人にした風である。そう、夢を観るということはなんという孤独なことなのだろうか。

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