●橘川幸夫
私たちの社会が失ったものはたくさんあるが、一番大きな喪失は「社会の教育機能」を失ったことではないか。昔は、子どもたちは社会の子であった。
うちの母親なども、道ばたで他人の子どもが悪さしていると、本気で叱っていた。今は他人の子は、それぞれの親の価値観で叱ったり、叱らなかったりするか
ら、ほっておくしかない。かつては地域全体が教育(しつけ)の場であったのだ。学校も社会という大きな教育システムの中にあったものであったが、現在は、
社会という教育機能が蒸発し、学校だけが取り残された。
かつては職場とは生産や流通の場であると同時に教育の場であった。これは江戸時代の商いの時代からそうで、店員は仕事しつつ社会のルールや仕事への責任
感を学んだ。仕事が終われば寺子屋で基礎教育を学んだ。寺子屋という学校での学習は、社会全体の教育システムとつながったものであった。更に高等教育にな
れば、職人は師匠の技を盗むように学んだ。職場も人工的ではあるが地域の一つだったのである。
戦後社会のメディアの世界もそうであった。僕自身は学生時代にロッキングオンを始めていたので、大手出版社で修行してはこなかったが、講談社の内田勝さんや、平凡出版(マガジンハウス)の木滑良久さんなどの名編集長は、また良き教育者として後輩を育てた。
出版社に限らず、あらゆる領域の会社は、職場自体が学校であったはずだ。真っ新な新人にとって職場以外に職能を身につける場所はなかったのだ。
ところが会社が企業と呼ばれる頃から職場の意味が変質してきた。そこでは先輩・後輩の序列が失われ、共同性も失われ、ひたすら生産効率の数字だけが一人
歩きしはじめた。教育とはコストのかかるものである。まして全人格的にマンツーマンで育て上げるには、奉仕に近いエネルギーを必要とする。後輩に教えなく
ても自分でやった方が早い作業も、後輩を育てるためにやらせたりする。しかし企業は、そうした奉仕を不合理と感じた。必要な人材は外部から完成した人材を
供給するか、外部に発注すればよい。基本教育は専門の社員研修会社に委託すればよい。マンツーマンの関係を作るより、効率良い方法を強いられた。戦後の個
人主義の突出も、そうした動きに輪をかけた。
その結果、例えば出版社は、外部の編集プロダクションに作業を委託し、テレビ放送局は番組制作を外部プロダクションに委託することになる。その会社の魂
である「コンテンツを作る」ということを外部委託してしまい、その結果、外部を予算的にコントロールするノウハウはついても、肝心の「雑誌を作る」「番組
を作る」というノウハウがなくなってしまった。なくなってしまえば、教育しようにも教育のしようがない。せいぜい、先輩は麻布や青山のグルメ店の情報を後
輩に伝えていくだけだ。
組織の中で「一緒に何かを作る」という意識が失われれば、その組織は人間的な活力を失い、冷たい機械的なものになる。組織が右肩上がりで膨張しても、誰一人、充実感を持つ者はいなくなる。
僕は企業がM&Aを繰り返して膨張している時に、「逆だ逆だ」とつぶやいていた。組織は拡大して都市になるべきではなく、分解して、小さな地域
規模のコミュニティ(村)になるべきだと思った。これからの社会における組織は、トップシェアを誇るだけで内実の寂しい巨大組織を目指すべきではなく、個
人と個人が関係性を保ち、先輩が後輩の面倒を見ることが出来る程度の「地域」としての「会社」を無数に作っていくべきだと思う。
近所の豆腐屋は、老人夫婦でやっている。毎年、いつも同じ売上げだが、倒産しない。「オーナーシェフ型」の小さな単位の商店や会社であれば、右肩上がり
の成長を目指さなくても、一定の客さえつかめば、持続した組織形態が保てるのである。暴力的に拡大するチェーンストア的なスーパーマーケットが、豆腐屋を
駆逐しさえしなければ。