「自分のための消費」から「愛するもののための消費」へ [][]
2010年3月28日 11:23
「自分のための消費」から

「愛するもののための消費」へ


●橘川幸夫

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初出・社団法人日本経営協会
機関誌「OMNI 2010年4月号」
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(1)貧しさから消費ニヒリズムへ

 私たちは戦争の荒廃の中から新しい時代を築いてきた。敗戦により崩壊した生産構造、喪失した絶対的価値観など、すべてを失いゼロからのスタートで豊かな社会を目指してきた。戦後の初期においては失われた物資(衣食住)を生産し流通させることが目標だったから、単純な頑張りがあれば良かった。マーケティングも、大衆の必要なニーズを量的に測定し、必要性のある市場に商品を投入すれば成果が出た。

 しかし、高度成長以後の豊かな社会が実現すると、物資的な豊かさがいきわたり、必要性の発掘だけは市場が見えなくなってきた。感性消費やブランド・ステータスなどが新しい商品開発のテーマになった。モノそのものではなく、モノをとりまくコトが重要になってきたのだ。

 そして、この領域も、すべての試行がいきわたってしまった。80年代バブルの時代は、円の価値があがることによって一気に成金になった日本社会が、ありとあらゆる消費の実験を行った時期である。やがてバブルが破裂し、日本は急速に低成長時代へと突入する。

 80年代の終わり頃、私は「日経トレンディ」のコラムで「消費ニヒリズムの時代」という原稿を書いた。消費者が、すでに自分が欲しいものが見あたらない時代局面に突入したことを感じたのだ。「東急ハンズ」から「ドンキホーテ」まで、新しい消費者が向かったのは、自分の消費衝動を内的に抱えたまま店舗に向かうのではなく、そこに行けば自分の欲しい商品が見つかるかも知れないという期待によって消費行動を始めたのである。通販ビジネスのカタログはまさに消費ニヒリズムの時代だからこそ発展した「欲しいもの提供消費」と言えるのだろう。

 消費者自身が、自らの消費欲求を見失っているのだから、いくら企業が定量調査をしようが定性調査をしようが、効果は薄い。豊かな時代とは、新商品に希望を抱かない時代でもあるのだ。飽食の時代であり、飽商品の時代でもある。

 90年代になり、消費者の消費トリガーは内的欲望ではなく、価格の方にシフトしていく。100円ショップや、低価格競争は、消費者が切実にその商品を欲しいというものではなく、安いから買おうという納得によって普及したものと思われる。

 私たちは戦後初期と現在においては、全く価値観の異なる世界に生きているということを認識すべきだ。


(2)インターネット

 90年代の半ばぐらいから、世界中でインターネットがビッグバンのように波及した。コロンブスが発見したアメリカ大陸のように、インターネットは旧来のビジネス世界とは全く異質な世界を浮かびあがらせた。

 それまで商品として価値のあった情報が無料で提供され、「ナカヌケ」と言われる中間を排除して、生産者と消費者が直接取引するような事態が各所で起こった。当然そのことにより中間マージンは不要になるのだから、商品のデフレ化は進行し、日本で一番低価格で販売している商店まで検索出来るようになった。

 近代ビジネスとは、生産者と消費者の中間に位置することによって利益を上げることだ。商社は世界中の物資を売りたい人と買いたい人の間に入ることによって利益を上げ、メディアは情報を発信したい人と受信したい人の間に入って書籍を作ったり放送番組を作ったりして利益をあげた。近代ビジネスの本質は、中間介入作業である。しかしインターネットによって、個人と個人とが効率良く結ばれていくシステムの中では、中間介在は次々と排除されていった。広告ビジネスの崩壊は、メーカーとユーザーの間に入って商品を告知するという構造そのものが、インターネット時代が進めば進むほど無意味になっていくことを示している。

 インターネットは新しい大陸である。過去の価値観や構造を一度、すべて廃棄したところから、新しい利益構造を築いていかないと、古い構造はやがて消える。インターネットの動きの最前線であるTwitterの上では、さまざまなブレーンストーミングが行われ、提案作業や広報活動が行われている。インターネットの本質は「個人と個人を結ぶ」ということである。近代社会を支えた組織の意味が大きく変わってくる。組織の規模を誇るのではなく、それを構成する社員と社員の間が、どのように有機的な結合しているかが、問われている。ピラミッド型の組織論から、ネットワーク型の組織論へ、企業や社会の組織論が大きく変化してきているのである。


(3)価格破壊は「モノ」から「コト」へのシフト

 インターネットがはじまった頃、アメリカのコンサルタントたちは、有料のWebサイトでビジネスを行おうとした。旧来のビジネス構造と同様に、自分のノウハウや作業量に利益を加算して価格設定を行い、顧客を集めようとした。しかし、人気のあるコンサルタントでもなかなか有料会員が増えない。なぜなら、インターネットには無料で有益な情報があふれているので、コンサルタントのネームバリューは意味がないからである。彼らは、インターネットでは無料の情報提供にシフトし、そこでの評判を核にして、リアルな場で講演を行うことで利益をあげることにした。インターネットは無料で広報するには最適なメディアだが、情報を価格に転嫁するには不適切なメディアなのである。

 なぜなら、旧来のメディアのコストが「受信者負担」であったなら、インターネットは「発信者負担」のメディアなのだから。本を作れば、そのコストは読者が支払い、映画を作れば、そのコストは観客が支払う。これまでは当然のコスト原理がインターネットには通用しない。インターネットは、情報を発信したい人が自らのコスト(通信費、機材、サーバー代など)を負担して表現する場なのである。だから逆に言えば「身銭を切ってでも表現したい人が表現する場」としての態度が新鮮に映るのである。

 表現された情報は「モノ」である。しかし、リアルな場での講演は、生きている時間を講演者と観客が共有するライブであり、「コト」である。人々は、モノにはお金を支払いたくないが、コトには支払う。インターネットがはじまった時、僕は「インターネットでは教育がキラーコンテンツになる」と書いた。提供された情報はモノだが、その情報をリアルな場で教える「コト」は、ますます価値を増してくると思う。

 プロダクツにおける価格破壊も、こうしたインターネット状況と無縁ではないだろう。価格破壊は商品の定価をますます原価に近づけていく。削られていくのは付加価値や開発費といったソフトの部分である。消費者は、すでにモノとしての商品には、コトとしての付加価値を認めなくなってきているのだ。それは工業化社会が成熟し、世界中どこで作られてもそれほど技術の差別化がはかれなくなっている、技術の標準化の時代を迎えているからだろう。

 インターネットが旧来のメディア構造と異質な点は、いくつかある。並べてみよう。
1.コスト負担が発信者負担である。
2.発信者と受信者が切断されていなくて、つながりっぱなしであること。
3.発信された情報は、世界中に伝播し、同時に全体性の中で蓄積される。
4.誰でも参加でき、好きな時に参加出来、好きな時に離脱出来る。

 このような新しい性質を持ったメディアが普及することによって、これまでの行動原理やビジネス構造が大きく変容せざるを得ない。インターネット上に旧来型のビジネス構造を移植しても、排除されるだけだ。逆に、インターネットで起きていることは、社会の未来を暗示するものだから、その現象をリアルな世界に移植することによって、新しいビジネスが創成出来る可能性もある。私は「インターネット・ビジネスモデル」が言われていた時代に、「そうではない、インターネット・モデルビジネスがありうるのだ」と言っていた。

 成熟化した工業社会を迎えている私たちが次に拡大していく領域は、モノをモノとして完成させる技術開発だけではなく、同時に、モノをリアルな空間の中に解放して、学び、伝え、楽しむためのコミュニケーション・ツールとすることだ。コミュニケーションこそが次世代の最大のビジネス領域になると考えている。


(4)SONYが目指したもの

 SONYは、戦後社会の発展の段階で、故・盛田昭夫と故・井深大のコンビにより、オリジナルな部品開発、製品開発、商品開発へと確実にステップを駆け上がっていた、日本が誇る企業であった。

 盛田さんが犬型ロボット「アイボー」の開発をさせたのは、おそらくそこに未来を感じていたからではないかと思う。想像でしかないが、SONYは、故・松下幸之助さんが築き上げた松下電器産業という家電の巨人に挑みたかったのだろう。そのためにSONYに欠けているのは、白物家電と呼ばれている冷蔵庫や洗濯機の生活家電領域である。しかし後発のSONYが白物家電を作っても勝てるわけがない。白物家電を未来の側から見たならば、それは「ロボット家電」である。

 アイボーはやがて掃除機ロボットや洗濯機ロボットに変容する可能性を秘めた、盛田さんの遺産だったのではないか。後継の経営者たちが、その意志と未来的な展望を引き続くことなく、短期の利益追求に走って、アイボーの流れを止めてしまったことは、日本企業文化にとっても、大いなる未来の喪失になった気がしてならない。

 戦後の日本の経営者や戦略家たちは、大きな未来への展望を抱えながら現実の努力を怠らなかった。未来から現在を見る視点を持っていたのである。SONYや松下やホンダだけではなく、リコーの創始者である故・市村清さんのダイナミックな活動や、私の領域であるメディアの世界では、デスクKの故・小谷正一さんの功績は今でも燦然と輝いている。

 経営者たちは、最近の若者たちの萎縮した小人ぶりを嘆くが、それは指導者である経営者たちの姿の反映に思えて仕方がない。少し事業に成功するとタレントのようにテレビで話芸を演じたり、もっともらしいコメンテーターになったりする経営者がいるが、そうした勘違いをしている限り、日本社会の構造そのものを変えようとするビジョンが育つわけがない。

 生活ロボットとしての白物家電の可能性は、ますます大きくなってきている。盛田さんが名付けたように、それは単なるプロダクツではなく、生活する人間の「相棒」でなければならない。生活の中で思い、考えることを得意としてきた日本人こそが、こうしたコミュケーション家電を開発すべきなのだ。日本で開発されたプロタイプが、世界中の人たちの生活に対応して展開していくことを夢見ることは、もう出来ないだろうか。

 盛田さんの、もうひとつの思いは、子どもたちへの期待であった。ドリームキッズこそが、日本の未来であることを、確かに感じていたのである。


(5)リーフラスの方法論

 福岡を拠点とするリーフラスという企業がある。設立が2001年だから、まだ9年ほどで正社員が300名を超えている。毎年30人から50人の大学新卒を採用している。業種はNPOと共同した子ども向けスポーツスクールの運営である。

 学生のうちにスポーツに熱中して国体で活躍したり日本記録を樹立しても、その能力で一般の企業には入れない。企業が体育会系の学生を採用するのは、体力があるとか根性があるとかという理由だが、実際のスポーツマンは純粋な学生が多く、営業マンとして根性を期待されて挫折する場合が少なくない。

 リーフラスはこうした優秀なアスリートを採用する。そして、採用後に、各人の故郷などに社員のまま帰すのである。彼(彼女)は地元で無施設型のスポーツスクールを開設する。社員のままの保証で、客の勧誘などは会社が協力してくれる。この方式で全国各地に支部を展開し、会員数は2万人を超えている。

 リーフラスの企業運営は、優秀なアスリートを採用し、それを日本各地に配置したネットワーク企業と言えるだろう。この方式を応用すれば、世界各国の留学生を採用し、故郷へ帰してリーフラス型のスポーツスクールを開設すれば、先行投資不要の世界戦略が可能になるのである。

 現在の学校教育は、個性尊重を標榜しながら、一芸を鍛え上げた若者たちが就職する道は皆無といってよい。アスリートに限らず、学生時代に鍛え上げた才能を、宝くじのようなスターシステムが吸収するのではなく、社会全体の装置として運用していかなければ、どんな職種でもよいから企業に潜り込みたいという人材しか育たないだろう。


(6)「子ども手当法案」の政策を考える

 私が今一番着目してるビジネスシーンは「子ども手当」である。民主党の提案によれば15歳までの子どもの保護者に毎月2万6千円を支給する予定である。初年度で半額を予定しているが、それでも総額2兆2554億円、翌年度からは5兆3000億円規模となる。

 この法案については、賛否両論があり、「貯金になってしまう」「親のパチンコ代に消える」とか批判する人もいる。しかし、現実的に見れば、この法案は可決されるだろうし、すぐにでも実施されることになる。

 経営者の皆様、よく考えて欲しい。毎月1万3000円のお金が政府から渡されるのである。私は前段の文章で消費者は消費ニヒリズムに陥っている、と書いた。そこを突破する道がここにある。すなわち、消費者はもう自分自身が切実に欲しい商品を見失っている。しかし、「愛するもののための消費」という領域は、今後、急速に増大すると思われる。子ども手当は、「子どものために何を消費すれば良いのか」という親の意識を強烈に揺さぶるはずである。

 子ども手当を政府のバラマキと批判するのはたやすい。今のままではそうなりかねない。しかし、民間企業がこの政府の施策をビジネスチャンスとしてとらえて、「子どものため消費」のための商品開発・サービス開発を行えば、一気に意味のある政策となる。

 これまでの政府は、税金を集めて、公共事業という名で特定の業界や財団に税金を割り振っていた。しかし、今回の施策は、集めた税金をそのまま特定の環境にある国民に還元しようというものだ。それを効果あるものにするかしないかは、政府の問題ではなく、民間の問題になるのだ。

 私たちは「ODECO」という全国の公立小中学校に対して、新しい教育メソッドを提供する実証実験を文部科学省から受託されて追及してきた。その流れの延長で、「子ども手当・応援団」という組織を立ち上げ、この法案が無駄なバラマキに終わらないように、あらゆる方策を考えていく予定だ。子どもたちの未来のために、企業の皆様と一緒に考えていきたい。

 この法案が経済活性化に有効なものとなれば、次年度は5兆円規模になる。国家の年間予算80兆円のうちの5兆円だ。そして、一度スタートしたら、政権が変わろうと、まず取りやめることの出来ない政策なのである。この市場を黙って見ていることは出来ないだろう。

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