Twitterから電子ブックへ
●橘川幸夫
1.ポンプ効果
1978年に、全面投稿雑誌「ポンプ」を創刊した。これまで、本誌の「おまけ」でしかなく、女性誌の読者欄などは、親父編集者の妄想で勝手に投稿をでっちあげてた時代である。しかも、文学投稿やユーモア投稿のレベルを競うものではなく、さまざまな生活領域からの「手紙」を集めるというコンセプトで発行した。毎日、数百通の全国からの手紙を読み続けることが僕の仕事であった。
ここで、僕は現代のネット状況で引き起こされるあらゆるトラブルの類に遭遇するわけだが、全面投稿雑誌を発行する最大の意味も発見した。それは当時「ポンプ効果」と名付けたものだが、誰もが投稿出来るメディアを持つことによって、あきらかにそれまでの日常生活とは視線が変わるのである。これは当時盛んだった「ぴあ」の「はみだしぴあ」の常連も言っていたが、「自分のメディアを持つ」ことによって、日常生活がメディアで発表するためのネタ探しの時間になるのである。猫が道を歩いていて転んだ。何もなければそれだけの風景だが、「自分のメディアを持つ」ことによって、その事実が、表現のテーマになるのである。投稿者の日常が活性化するといことなのだ。
僕自身、学生時代に「ロッキングオン」を創刊したこともあり、常に「自分のメディア」を持っていたから、よく分かる。「自分のメディア」がないと、考える気も起きない。どんなに面白いことでも、どんなに辛いことでも、それを聞いてくれる友人がいるいないでは、その時の感情の扱い方が変わってくる。「自分のメディア」とは、不特定多数の、僕の話を聞いてくれる友人のことなのだ。
印刷雑誌からパソコン通信へ、そしてインターネットへと進めば進むほど、この確信は強まり、ついにTwitter状況まで到来した。これまでのメディアは「書く喜び・読む喜び」はあっただろう。しかし、Twitterは「書いたものを読まれる喜び」を体現した。ふぁぼられる喜びである。あるいはRTされる喜びである。それはベストセラーとしての量の喜びではなく、一人でも具体的な相手に届いたという喜びである。表現する喜びが、自分中心のものから、関係性中心へと、質的に大きく飛躍したのである。
2.「ついぽん」の考え方 「ポンプ」を知っている人は、Twitterに出会って「これはポンプだ」と思うかも知れない。僕は少し違う。「Twitterはポンプではなくて、ポンプの投稿箱だ」と思った。ポンプの編集部には投稿箱があって、そこに毎日、日本中から郵送されてきた投稿原稿の封筒がためられていった。毎日、数十通から数百通もの封書が届いた。更にその中にはまた多くのテキスト、イラスト、写真なども同封されていた。
編集長だった僕は、毎日、この投稿箱の封書を開封し、読み続けて分類することが仕事だった。それは自我が崩壊するような(笑)過酷な作業であったが、新しい体験に興奮したものだ。当時、あるラジオ局の人と話していて「深夜放送にもリクエスト葉書や投稿葉書が来るけど、ほとんど読まないで捨ててるよ」と言われて、なんてもったいない、全部くれ、と言ったことがあった。
さて、Twitterである。現在、膨大にポストされているツィートを全部読めている人はいない。自分のTLでさえまともに読めていない。Twitterは一期一会の言葉との出会いが魅力でもあるが、なんとももったいない。Twitterが投稿雑誌の投稿箱であるなら、この膨大の投稿を編集して投稿雑誌を作れば良い。その発想で動き始めたのが
「Twitterポンプ」(ついぽん)である。
これはあくまでも実験的なシステムだが、原理的にはこう考えている。
1.ついぽんWebから投稿されたツィートは、Twitterに反映すると同時に、ついぽん側のサーバーにも蓄積される。
2.テーマ事に投稿を募集などすれば、テーマ事のツィートが蓄積される。
3.ハッシュタグでも同じだが、ついぽんWebから投稿することによって、権利関係の許諾なども対応出来る。
4.テーマ事のツィートを編集することにより、集合知的な作品が出来る。
3.iPad版深呼吸する言葉「深呼吸する言葉」は、僕が2008年よりはじめている、インターネット時代の新体詩運動である。100文字の制限された文字数の中で自由詩を作ってもらっている。深呼吸歌人は、130人、蓄積された深呼吸する言葉は18366本に及ぶ。(2010年4月12日現在)
ここでアーカイブされた言葉も、「ついぽん」でやろうとしていることと同じである。あらかじめ「作品」として書かれた深呼吸する言葉を編集することによって、集合知作品が生まれる。
これらは、固定的な作品集ではなく、バージョンアップが可能であり、新しい言葉群が追加されていく。
「iPad版深呼吸する言葉」の基本システムが完成した。デモを見たが、まさに、僕が「ポンプ」をはじめた時にイメージしたメディアの形態が、具体的な姿となって現れた漢字だ。辿り着いたのだ。
iPad版深呼吸する言葉アプリの概要は以下である。
1.2500本の僕の深呼吸する言葉(テキスト)と1000枚の写真がiPadアプリに搭載されている。(デモ版は写真300枚)
2.画面をタツチすると、2500本の言葉と1000枚の写真からランダムにデータを呼び出し、頁を構成する。更にタッチすると、次の画面を呼び出す。
3.旧来の書籍のように「頁を繰る」という概念ではない。小さなDBから、ランダムに情報を引き出す。将来的には、タブをつけたり、自由語検索も可能。
4.商品化にあたっては、定期的に言葉と写真を追加していく予定。
スタートにあたっては、橘川個人の言葉と写真だけで作品化したが、あくまでもプロトタイプであることは言うまでもない。深呼吸歌人のメンバーの作品も可能だし、ついぽんで集められたツィートの作品も可能になる。
ランダムだけではなく、ストーリーをつけたスライドショー的な展開や、通常の書籍のアナロジーももちろん可能である。今回、音楽はつけなかったが、音楽は自前で登録してある曲を選んで流してもらえれば良い。
Amazon Kindle は、書籍をeペーパーで読むためのものだと思うが、iPad的な「電子ブック」は、言葉と映像と音楽の融合した新しい「本」になると思う。
そして本である限り、中心にあるのは「言葉」である。Twitterで横溢している、世界中の個人の言葉の激流、それを上手にすくい上げて、小さな池のような作品に仕上げること。それが、僕のイメージした電子ブックである。
4.iPadは、パソコンのウォークマンである。 iPadをはじめて触った時、何かとても懐かしい感動を思い出した。それは、1979年にウォークマンが登場した時の感覚である。ウォークマンが登場する以前、僕はカバンにテレコを入れて大きなヘッドホンをつけて音楽を聴きながら通勤していて、夕刊フジに記事にされたことがあった。坂本正治さんがオーディォ装置を組みこんだサイドカーを作ったので、それに乗せてもらい、深夜の246をハイウェースターを聞きながら走行したことがあった。そういう遊びをしてきた身にとって、SONYから登場したウォークマンは、待ってましたの感動を与えてくれた。僕は、登場してすぐに、宝島で10数頁のウォークマン論を書いた。新しいプロダクツによって、新しい次元が登場したことが嬉しかった。
iPadは、僕がネット上でいろいろ遊んでいたことを、次の次元に運んでくれるような気がした。ウォークマンをつけて街で出ると、世界が違った風に見えた。同時代意識を感じさせてくれるロック音楽とともに街を歩くことによって、街の姿が一変したのである。iPadは、どうなんだろう。何を変えてくれるのだろう。まだ分からない。分からないが、漠然とした期待は募るばかりだ。プロダクツに恋をしない限り、素敵なコンテンツなど生まれてくるわけがない。
ウォークマンは、音質にこだわり、音楽を肉体に装着することをイメージして開発された。ポータブルなテープレコーダーはそれまでにもたくさんあったが、「何のために使って欲しいのか」を明確にしたコンセプトワークの勝利だった。ウォークマンが出て数年して、日立の音響事業の担当役員と話したことがある。その役員は「ウォークマンみたいなものは、うちの研究者も開発しとったんですわ、商品化を潰したのは私ですな、わははは」と何だかよく分からない笑いを発した。盛田昭夫さんの言葉に「企画とは考えた奴が偉いのではない、実行した奴が偉いのだ」というようなのがあるが、まさに、ウォークマンの商品化を決断した盛田さんは、偉かったと思う。
iPadの液晶輝度、画像データの処理速度、これらを体感すると、iPadが単なるポータブルなパソコンや、ノートブックとは次元が違うことが分かる。ビジネスでもエンターティメントでも何でもつかえますよ、という使用目的をユーザーに丸投げしたプロダクツとは違うのである。ジョブスが、iPadを使って、動かして欲しいアプリやコンテンツを要求しているような感覚すら覚える。凄い挑戦状だ。
iPadを使った、新しい編集、新しい表現を、具体的な追及してくれる仲間を求む。Twitterが、関係性の中での表現の喜びを示した以上、iPadも、孤立した近代人の自己完結的なアート表現だけには留まらないだろう。現象だけではなく、本質を遊びながら探ってくれる、仲間を求めている。