あけましておめでとうございます。
橘川幸夫
2011年 新春
◇時代というのは、古い価値観と体制を壊しながら、新しい息吹を感じさせるものにゆっくりとシフトしていきます。かつて「60年代とは1965年から1974年、70年代とは1975年から1984年、80年代とは1985年から1994年」という説を述べたことがあります。古い時代は頑固なまでに栄光を保守しようとしますので、新しい時代の予感の間とのグラデーションの時代がしばらく続くので。
◇同じように、21世紀も2000年もしくは2001年になって、いきなりスタートするものではありません。まずは20世紀の残滓を払拭する時代が続きながら、その中で現れてくる次世代の息吹がやがて本格的に立ち現れて21世紀がはじまる。その期間は10年はかかるだろうとかつて書きました。
◇20世紀はテクノロジーの加速度的な発達によって、人類にとって、かつての世紀の数倍も数十倍のエネルギーで時代を推進しました。そのエネルギーを消滅させるのは並大抵のことではありません。しかし、20世紀を終了させない限り、私たちの未来への道は築けません。過去の人類の経験をベースにした上で、全く新しい価値観、技術思想、関係性の追求、共同体のあり方などを生み出すことが、時代の流れというものの本当の意味だと感じます。
◇翻って日本の政治状況を眺望するなら、怒りを超えた寂寞たる思いを振り払えません。しかし、これも「政治家に何かを期待する」という代理人制の無力さを証明しているのだとしたら、20世紀的政治制度の最後の断末魔だと思えなくもありません。
◇僕は19歳の時から、一貫して「代理人制度の否定としての参加型社会」を模索してきました。20世紀の末期に現れたような「無理矢理、参加される参加型システム」ではなく、一人一人の個人が、個人のままで生き生きと全体に参加する社会を目指してきました。権力が人を裁くという法律制度の根幹を疑うことなく、徴兵制のごとく、既存の裁判制度に強制的に参加させられる裁判員制度のようなものが、イメージだけ未来社会を取り入れながら、実体は、20世紀型価値観を温存させようとする疑似参加型システムです。
◇僕は、昨年、還暦を迎えて、もはや、新しいことを切り開く感性も体力も残されていません。せめて、これまでに考え、行動してきたことを反芻して、まとめることぐらいが残された人生で果たすべきことかと思います。
▼今年のうちにやること(1)
僕なりの思考体験をまとめて「本当の参加型社会論」を執筆します。
◇菅政権は、来年の予算総額を92・4兆円とした。これが、国家100年の計を勘案しての数字であれば、意味もあるだろうが、とても、そのようなものには見えない。素人首相が「あれをやりたい、これもやりたい」と駄々こねた結果としか見えない。財務省の方でも、「消費税増税のための、撒き餌」みたいに思っているのではないか。
◇問題は量ではなく質である。実際、92・4兆円からのお金を1年間で使い切るというのは、大変な作業である。日本の官僚の優秀さは、皮肉ではなく、これだけの金額のお金を1年間で確実に、どこかに押し込むことが出来るという能力である。これだけの金額なので、細かい施策よりも、1件数百億レベルの大型プロジェクトの方が官僚にとっては都合が良い。しかし、それこそが20世紀的な発想なのである。今、在野のベンチャーや個人のレベルで時代のイノベーションを追及している人たちにとって、数百万円、数千万円レベルでの資金が手当て出来れば、いろんなことが出来るのにと思っている人は少なくないだろう。しかし、そういう細かな対策をしようと思っても、現状の官僚の体制では、手間がかかって実行不可能である。
◇20世紀的ビジネスは、「100円の商品を売るにも、1億円の取引するにも、人件費が同じなら、スケールの大きな商いをする方が儲かる」というようなものである。その発想がそのまま、「一番儲かるのは現場から一番遠い、金融商品を扱うことだ」と、リーマンショックまで一直線に突進してしまった。
◇100億円の無意味な施設を作るよりも、100万円の効果的な助成をした方が国家100年の計のためには役立つことがたくさんあるのに、現状の予算システムでは、それが成立できなくなっている。すべて、高度成長によって膨張してきた20世紀日本の成功モデルに依存しているからである。
◇政策の決定構造を根本的なところから検証しないと、生きた予算は生まれないと思う。自民党政権時代は、日本も成長拡大路線できた。これは明治維新以来のレールの延長線だが、日本は、世界の先進国の事例を検証し、キャッチアップ効果で、欧米の成功事例を研究し、日本にカスタマイズしてきた。政策審議会には各界の有名人が顔を並べるが、仕切るのは大学の先生である。日本のアカデミズムは、政府と一体となり、世界中の政策を研究し、日本に導入してきたのである。教授が下書きをし、官僚が作文を加え、政治家が決定するというのが、日本の政策の実施スタイルである。これの最後の事例が竹中平蔵氏の金融市場至上思想だろう。
◇国民はなぜ、政権交代を望んだのか。確かに自民党政治の腐敗状況、既得権益とのなれ合い構造に対するアンチという意識が強かっただろうと思うが、もっと根本的なところで、20世紀的社会構造は終わるということを感じていたのだろうか。それは日本にとっては、明治以来の近代化が終わるということであり、一刻も早く、次の社会経営思想や運営システムに転換しないと、日本は20世紀と抱き合い心中してしまうという漠然とした危機感があったのではないか。
◇中国や韓国は、20世紀日本の成功モデルをキャッチアップしているのであろう。そして、日本は、すでに、世界中にお手本がないほどの超先進国になりつつある。それは経済的に成功するということではなくて、人類が共同体として生きるための、最先端の課題を与えられているといことだ。それは「豊かさを希求した以後の社会」であり「生まれて成長するものより、やがて死んでいくことを意識するものの方が多いという高齢者社会」である。むしろ世界中の先進国が日本のこれからに注目していると言って良い。日本は、学ぶ時代から教える時代へと移行しつつあるのである。なのに、日本の政治は、この体たらくである。
◇夏目漱石も森鴎外も世界の知見に触れて、日本の近代化に新しい礎を築いた。しかし、もはや、日本は、世界に学ぶべきものはない。これは傲慢さではなく、むしろ、今こそ「世界の学ぶものはない」と認識すべきなのだ。そして、日本の近代化=欧米化によって失われた本来の日本の姿=現場に立ち戻り、その可能性を再認識すべき時期だと思う。
◇政策においては、すでに自分の外側にある事例を検証することしか出来ない大学の教授ではなく、自らの内面に分け入ることの出来る新しい先生たちの登場が待たれる。そしてさまざまな領域の問題点を、はっきりと認識しているのは、NPOなど現場で活動している人たちだと思うので、彼らとの交流を促進して、一緒に政策を思考していきたい。
▼今年のうちにやること(2)
「生活装置研究会」では、官僚向けフリーペーパーを発行します。◇(続く)