追悼・坂本正治さん [][]
2011年11月21日 01:34
坂本正治さんの思い出


 坂本さんは、1978年に僕が全面投稿雑誌「ポンプ」を創刊した時、いきなり怖い顔して編集部に現れて「この雑誌を作ったのは誰だ」と言ってきました。怒ってきたわけではなく、面白いので会いに来たということでした。それが最初の出会い。

 坂本さんの家が柿の木坂にあって、当時、僕の家が駒沢だったので、近所付き合いがはじまった。坂本さんの家には彼が開発したイメージシンセサイザーの4号機だったかが置いてあり、荒木さんのセンチメンタルな旅や、ポパイのニューカレドニアの写真などを楽しませてもらった。イメージシンセサイザーは、12台のスライドプロジェクターがミキサーとつながっていて、音楽の波長に応じて、12台のスライドが画面に投影されるというしろもの。マガジンハウスの忘年会でやったものは、その年の報道写真を流行った音楽で演奏する。なぜか、哀しい映像になるんだ。これは見た人でないと分からないだろう。

 この機械の最初は、大阪万博の時に、小谷正一さんがプロデュースした住友館に出品した「時分割テレビ」だと思う。これは、同じく12台のテレビが、少しずつ時間を分割して上映する。例えば、1台目はドアが写っている。2台目は、ドアが少しあいたところが写っている。3台目は、そこから人が入ってくる所が写っている。12台を一度に見ると、ドアから人が入って、こちらに眼前にいるところまでが一瞬のうちに分かってしまうというものだ。この機械は、日本では理解されないだろうと、ニューヨークに渡り、ソーホーを棲みついて開発を進めた。二号機、三号機にはイタリア女の名前がついていたが、ニューヨークではそれが分かりやすいからだと言っていた。詳しくは「ニューヨーク武芸帳」という本に書いてあるはず。

 坂本さんは、銀座の生まれ。銀座の家は、松坂屋の真裏にある大きなビルで、その地下には、怪しい工作室があった。僕が会った時は、弟さんがやっていたようだが、坂本さんは、ここで、ディスコやナイトクラブのミラーボールや照明装置を作っていたようだ。

 坂本さんが麻布中学の時に、ソビエトがライカ犬を宇宙衛星に乗せて飛ばした。それに衝撃を得て、宇宙獣医になろうと決意した。東京農工大学獣医学科に進むのだが、ライカ犬のすぐあとにガガーリンが有人宇宙飛行を成功させて、宇宙獣医という職業は成立しなかった。これが最初の挫折。(本人から聞いた話)

 60年代前半からジャズとアートに目覚め、さまざまな作品を作る。アート会場に、工事用のライト付きのコーンを持ち込んだりした。タイトルが凄かったんだけど、思い出せない。税務署の職業欄には「彫刻家」と書いていたと言っていた。アーティストの中で彫刻家が一番、制作原価が高いんだ、と。

 駄目だ。思い出すときりがなく、切ない。こんな素晴らしい人と、つまらない行き違いで疎遠になってしまった。一度だけ、バイクでデメ研まで来てくれて、話したことがあった。大小説を書いてるから読んでくれ、と。そのまま連絡がとだえた。一度、柿の木坂の坂本さんの家を訪れたが、解体工事の最中だった。

 坂本さん、ちゃんと最後まで付き合えなくて、ごめんなさい。坂本さんの暴力的な生き方と、繊細すぎる生き方が大好きでした。僕は、一冊だけ、絵本を書いたことがあるんですが(「ナゾのヘソ島」絵は、真崎・守)その主人公は、へそ曲がりのマサハルでした。

 天国で、また陰謀会議の続きをしましょう。合掌。



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