未来フェスに向けて [][][]
2013年6月23日 15:40
(1)林雄二郎さんと僕


◇僕がはじめて出した単行本は、1981年の「企画書(1999年のためのコンセプトノート)」という本である。内容の大半は、1970年代にロッキンクオンで掲載した原稿である。ロッキングオンは音楽雑誌だったが、70年代後半にパンクが登場する頃から、僕は、音楽業界的な音楽への関心は薄れ、社会的な時評や構造分析をロッキングオンに書いていた。音楽(rock)とは、単なるレコードアルバムではなく、社会のダイナミックな動きそのものだと感じていたからだ。

◇林雄二郎の「情報化社会」という本に出会ったのは、そういう時代であった。僕はロッキングオンに書評を書き、林さんに長い手紙を書いた。林さんから連絡があり長い付き合いをさせてもらった。僕は林さんに何か仕事のことで依頼したことはないし、林さんも、僕に対して何か要求することもなかった。たまに会って食事をしながら近況報告をするという、普通の友人関係のようなものであった。

◇「企画書」の推薦文は、林雄二郎、高山英男、渋谷陽一の三人である。このことは僕の誇りである。はじめて書いた本に、それぞれの領域でしっかりと活動していた人たちが推薦してくれた。当時、広告代理店にいた友人は「ちょっと推薦人のインパクトがねえな、もっと有名人の方が良いんじゃないの」とアドバイスしてくれたが、世間的な有名人なんかよりも、社会や時代的に本質的な仕事をしている人間の方が、どれだけ価値があるのか、あんたには分かるまい、と思っていた。

◇林さんとは、本を一緒に作ったことがあるぐらいで、特別な仕事をしたことはないが、自分にとって大事な本を書いた時は、まず林さんにゲラを読んでもらい、推薦文を書いてもらった。何通か長い巻紙の手紙をもらったが、それは僕の宝物である。

◇林さんが90歳に近くなるまで、僕は僕の友人を林さんに紹介したことはほとんどない。80年代に、恵比寿にあった橘川幸夫事務所に林さんが来てくれて、スタッフにレクチャーをしてくれたことがあったぐらいだ。そのレクチャーは僕が編集していた「イコール」という雑誌に掲載されている。あとは90年代に、亀田くんを一度、連れていった位だ。知り合いを紹介して、変なアプローチをされても困るからだ。でもさすがに90歳という年齢になり、若い世代の友人たちに、林雄二郎の実像を触れさせたくなり、日本財団の一室を借りて、講演会を開催した。ここには多くの友人が集まってくれた。


(2)信國乾一郎と森を見る会

◇この講演会をきっかけに、元リクルートの信國乾一郎が中心となって、「森を見る会」というのが作られた。「森を見る会」という名前は、林さんがよく「木を見て森を見ず、という言葉があるから、最近の学者は、木どころか、枝やら根っこばかり見ていて、木すら見てない」と嘆いていたので、「では、林雄二郎と森を見る会をやりましょう」と提案したのだ。細分化された現象ではなく、社会や時代の全体を見ながら林さんと語り合う会を定期的に開催した。

◇参加者も集まり、会場は、当時リクルートエージェントの社長だった村井さんが、霞ヶ関ビルの会議室を貸してくれた。霞ヶ関ビルは、林さんが88歳の米寿のお祝いのパーティがあり、林さんは高齢なこともあり5分くらいのスピーチの予定だったのだか、結局1時間以上立ちぱなしで講演された。そのテーマは「静脈産業論」というものだったのだが、僕は、林さんがなぜ、あれだけ熱心に静脈産業の必要性を訴えたかを、よく理解出来た。

◇「森を見る会」は、林さんはいつもニコニコしながら、でも時々、厳しい顔で若い人たちと語らっていた。90歳を過ぎても、会の終了後の酒宴にも付き合ってくれて、夜遅くまでお酒をしっかりと飲んでいた。会の内容は、さまざまあるのだが、ある時、僕と信國の二人が情報化社会の構造と未来についてプレゼンテーションすることになった。その時の信國のプレゼンは、分かりやすく素晴らしいもので、終了後、林さんも、「彼の説明はとても明快だった」と言っていた。ちなみに、林さんの長男の光くんに聞いたのだが、林さんは「橘川くんは、しゃべるより書いた文章の方が面白いな」と言っていたそうである(笑)。

◇信國は、僕の「80年代三人の弟子」のうちの一人である。弟子と言っても、僕が勝手にそう呼んだだけなのだが、彼も、いろんな局面で僕に会いに来てくれた。2001年に「21世紀企画書」(晶文社)という本を出した時に、リクルートでまとめて購入してくれて、部下たちに配ってくれた。その出版パーティを大阪で開いたのだが、平日だったため、信國は自分の部下たちを引き連れてやってきてくれた。その信國も、2009年12月22日、44歳の若さで亡くなった。その時の思いは、以下の追悼文にある。



(3)未来フェス 

◇信國もいなくなり、林さんが病に倒れ、「森を見る会」も閉店状態が続いた。2011年3月11日に震災があり、そのあと心配になり、林さんの自宅を訪問した。以前に林さんの奥さんが亡くなった時に訪問して以来だ。林さんは元気で「橘川くん、僕はね、死ぬ気がしないんだよ」と大声で笑っていた。信國が亡くなったことを話すと、少し暗い表情になった。林さんも、その年の11月29日に95歳で大往生した。



◇林さんのお別れ会で、林さんと生前お付き合いされていた多くの人たちと出会うことが出来ました。そして、現在、林さんの意志を引き継ぐための「林雄二郎思想未来研究所」の設立メンバーとして参加しています。今年の秋には、具体的な施設と、日本の未来を考えるシンポジウムが開催される計画です。

◇こちらの計画とは別に、橘川も「森を見る会」を再起動すべく、若い仲間たちと、「未来フェス」の企画を進めています。林さんは、未来学という学問の領域を切り開き、未来学会を設立した人ですが、僕が林さんから学んだ未来学は、知識の集積の上で推論する未来でもなく、技術進化のロードマップ上に夢を描くことでもない。たった今、この現実の中で、家庭の中でも企業の中でも街の中でも、未来の芽が起きているはずである。そうした未来の芽を探しだすことが、本当の未来学だ、と。僕は、林さんの意志を引き継ぎ、今秋、京都で未来フェスを実施します。

◇これは、僕らが企画して新しい引き起こすイベントではなく、すでに起きているさまざまな新しい動きや模索をしている活動を、10月12日13日という日時を決めて、同時多発で実施してもらうものです。すでに様々なテーマでイベント主催者が集まってきています。

◇未来フェスで、何かイベントを主催した方、イベントは主催しないけど賛同していただける方は、以下のサイトで登録してください。活動報告などを随時メルマガで送らせていただきます。



(4)南場智子さんの本

◇未来フェスの企画を進めていて、「ああ、信國は京都大学出身だよなあ」と思い出し、つくづく、あいつが生きていたら、もっと多様なネットワークを作れたのにと、思ったりしていました。そんな時に、DeNAの南場さんが、本を出しました。南場さんがビッターズを開始する時に、声をかけたのがリクルートの信國だったのです。南場さんは、信國と同じ世代だったにも関わらず、信國を「師匠」と呼んでいました。南場さんが、モバオクを立ち上げた時の最初のオークションは、デメ研のパーティ会場でした。しかし、あるトラブルで二人は冷戦状態になりました。信國はリクルートの社内でも問題児でしたし、フリーになってからも喧嘩ぱやいので、あちこちで人間関係のトラブルを引き起こしていました。それだけ、人間関係に本気で向かい合う男だったのです。信國が病に倒れて、彼が引き起こしたトラブルのことが引っかかりました。信國の姉貴分であった沢田さんとも、そのことを話しました。

◇南場さんの本は、モバゲー成功の自慢話などではなく、信國乾一郎に捧げた本でした。人の死はどうしようもなく人間の無力さを感じさせます。しかし、死んでも、まだ人に影響力を与え、生きるエネルギーを換気してくれる「生」もあるのだということを、僕は、林雄二郎と信國乾一郎から改めて教えられました。僕も還暦を過ぎ、いつでもいなくなる覚悟はついています。ただ、生きる限りは、生きていくことの責任を、多くの友人のために果たしていきたいと思うばかりです。


南場 智子 (著) 




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